今年も4月25日~28日の4日間、ペイズリー・パーク(Paislay Park)で開催された"Celebration 2019"。
今回の話題はなんといっても元ザ・タイム(The Time)のギタリストで7月にはビルボード・ライブで来日公演を果たすジェシー・ジョンソン(Jesse Johnson)でしょう。
ジェシー・ジョンソンのインタビュー
プリンスをお祝いするイベントなんで懐かしむ感じで悪口を言うことはあってもズバリと言う人はそういないでしょう。でもジェシーは・・・
“A lot of things he did … hurt me to my soul,” said Johnson, the original guitarist of the Time, during an onstage interview that quickly turned into a long, rambling monologue. “Would I have come here if he was alive? Probably not.”
プリンスに傷つけられた事、そしてプリンスがいたらこのステージに立たなかっただろうと話してます。
他にも『グラフィティ・ブリッジ』以降ペイズリー・パークに足を踏み入れてない事やジェシーが作った曲をプリンスが奪った(有名なのはシーラEの"Shortberry Strawcake"はシーラとジェシーの共作だけどクレジットはプリンスのみ)等、中でも印象的なのは“He had a lot of power, and he used it.(彼は大きな力を持っていてそれを使った)”と今で言うパワハラがあった事で精神的に追い詰められた事を話していたそうです。
長年に渡る確執があったものの、お互いの才能を認めプリンスの事を
“I need to rest my soul,” Johnson said at one point, choking back a tear. “I loved him. He was my brother.”
”彼を愛していた。 彼は私の兄弟でした”と涙を流しながら話したという件は想像しただけで泣けてきます。
タイミング的に6月のモーリス・ディ&ザ・タイムのライブにギタリストとして参加して欲しかったけど現タイムのギタリスト、テレルの立場もあるしモーリス達共なにかありそうだから無理だったんでしょうね...
ジェシー・ジョンソンに関してはアルバム紹介してますが”アルバム紹介を1ページづつ見るの面倒!”かもしれないし半生って形では書いてないのでざっくりまとめておこうと思います😄
・・・と言っても書いてくうちに結構なボリュームになったので複数ページに分けますw
ジェシー・ジョンソンについて
1960年6月1日イリノイ州ロック・アイランド生まれ、15歳からギターを始め地元のバンドで演奏していました。
’81年(当時21歳)にミネアポリスに引っ越しモーリス・ディを通じてプリンスと知り合い、彼がプロデュースによるザ・タイムにギタリストとして参加します。
ザ・タイム離脱まで
ザ・タイムは、プリンスが表現したかったグループ性を強めたファンクという別のアプローチを吐き出す為のバンドで、殆どの演奏はプリンスがおこないモーリスがヴォーカルを入れる・・・というスタイルだったので、バンドとしての活動はライブのみという”操り人形的”な状態でした。(ジェシーを採用したのもギター・プレイではなくビジュアルが気に入ったからだったと言われてます)
当然アルバムの印税はプリンスに入る訳でギャラも少なくメンバーから不満も続出します。
’82年、ジャム&ルイスがSOSバンドのプロデュースをした後ライブ開場に飛行機で向かう途中アトランタでブリザードに合い結果サンアントニオ公演に穴を開けた事が引き金となって二人は解雇、後を追う形でモンテ・モアも脱退、代わりにポール・ピーターソン達が加入というバンドは大きく変化。そうした内紛を抱えながらも'84年の映画「Purple Rain」の大ヒットと繋がっていきます。
映画は大成功するものの、以前から問題になってた楽曲のクレジットやギャラの件は解決の糸口が見えず、モーリス・デイは脱退、必然的にジェシー・ジョンソンもポールと同時期に加入したマーク・カナディナスとジェリー・ハバートと一緒に脱退します。(残ったポールとジェロームはザ・ファミリーとして再始動)
改めて書くと、プリンスに勝るとも劣らないギター・センスを持っていたジェシーが一番忍耐強くプリンスの側に居たんですよね...
プロデューサーそしてソロ・デビューまで
’84年ザ・タイム脱退するとプリンスのデビューをマネジメントを担当したオーウェン・ハスニー(Owen Husney)の力を借りA&M Recordsに移籍、同年レーベル・メイトとなったジャネット・ジャクソンの2ndアルバム「Dream Street」の為に"Pretty Boy"と"Fast Girls"の2曲のソングライトを担当。(ジャム&ルイスとタッグを組んだ「Control」はこの2年後)
翌年、一緒に脱退したマークとジェリー他メンバーを加え念願のデビュー・アルバム「Jesse Johnson’s Revue」をリリース、シングル"Be Your Man"はR&Bチャート4位、"Can You Help Me"は3位(この週プリンスの”Raspberry Beret”は初登場4位)、アルバムもR&Bチャート8位と成功を収めました。
一方でプリンスのプロデューサーとしての手腕を側で感じてたジェシーは、ミネアポリスのナイト・クラブで演奏していたマーガレット・コックスをA&Mに推薦、“タ・マラ”に改名させ男性ミュージシャン4人を加えた”タ・マラ&ザ・シーン”を結成、デビュー・アルバム「Ta Mara & The Seen」をリリースし、好調なスタートを切りました。
ちなみにタ・マラは後にマギー・コックスとしてプリンスのコンピ盤「1-800 NEW FUNK」に参加します。
大御所を迎えた2ndアルバムの裏でプリンスの圧力
’86年には大ヒットした青春映画『プリティ・イン・ピンク』に書き下ろし曲"Get To Know Ya"を提供、自身の2ndアルバム「Shockadelica」では、当時低迷していたスライ&ザ・ファミリー・ストーンのスライ・ストーンを客演に迎えた"Crazy"がR&Bチャート2位に輝く大ヒット!(しかもMVの監督はスパイク・リーです!)
順調な活動の様にもみえますが、脱退後もプリンスの見えないプレッシャーと戦う事となります。プリンスはジェシーのアルバムがリリースされる前となる'86年9月に”Shockadelica”と同名の曲をレコーディングし、同曲をアルバムに収録するよう提案。10月にはアルバムをリリースしていたので当然断ったジェシーに対しプリンスは'87年の"If I Was Your Girlfriend"のシングルB面に”Shockadelica”を収録し、あたかもタイトル曲をプリンスが書いていたという印象操作をファンに与えました。
ジェシーの事を思うと耐え難い嫌がらせですが、敢えてプリンスを養護するなら、この年は映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』の興行的失敗、そしてザ・レヴォリューションの解散と精神的にも不安定だったからかもしれないですね。
もっとも精力的に活動した88年
プリンスからの圧力にもめげず、'88年には3rdアルバム「Every Shade Of Love」をリリース。
本作にはシーラ・Eの盟友エディ・M他、ジェシーがプロデュースしたタ・マラ、そしてクレア・フィッシャーとプリンスゆかりアーティストが参加し、”Love Struck”は最高4位とヒット。
この年にはミネアポリス出身のスー・アン(Sue Ann)の2ndアルバム「Blue Velvet」で5曲をプロデュースした他、タ・マラ&ザ・シーンの2nd「Blueberry Gossip」、同じく全面プロデュースの新人ダ・クラッシュ(dá KRASH)、そしてポーラ・アブドゥル(Paula Abdul)のデビュー・アルバムに収録の"I Need You"を手掛けるなど精力的に活動します。
翌'89年にはウェンディ&リサの「Fruit At The Bottom」に参加したりと多忙を極めました。
個人的にはアルバムはリリースする度に良くなって行ったと感じてたんですが、この頃はキース・スウェットやボビー・ブラウン等、所謂”ニュー・ジャック・スウィング”ブームが到来し、波に乗れない状態となりました。
ザ・タイム再結成
'90年、『パープル・レイン』の続編となる『グラフィティ・ブリッジ』が制作、これに伴いライバル・バンドとして再びザ・タイムが再結成する事となります。
オリジナル・メンバーのジャム&ルイスも参加した「Pandemonium」はプリンスは関与しているものの今回はザ・タイムが演奏ジャム&ルイスやジェシーもプロデュースやソングライトにクレジットされ順調かと思いきや・・・キム・ベイシンガーとの破局&降板による脚本変更から端を発する過密スケジュールで映画は興行的に失敗、当然プリンスとバンドとも不和となりザ・タイムは再び解散、冒頭にも書いたインタビューからジェシーはこの日を境にペイズリー・パークに足を踏み入れて無かった事となります。
長い休養に突入
ジェシーがプロデュースしてたダ・クラッシュ(dá KRASH)が解散、残ったメンバー+αでクール・スクール(Kool Skool)を結成、当時流行していたニュー・ジャック・スウィングを取り入れジェシーの新境地開拓かと思われていたのですが、同時期にリリースされたベル・ビブ・デヴォーの「Poison」の前に思うような結果を残すことが出来ず、色々考える所があったのか暫く表舞台から離れる事となります。
サイト運営当初、ジェシーに関しては冒頭のソロ3作、そしてザ・タイム再結成した90年まで聴いてたって方が多かったです。
’96年再びソロ・アーティストとして復活
A&M Recordsから離れていたジェシーですが、ザ・タイムの「Pandemonium」から6年、ソロとしては「Every Shade of Love」(’88)から8年振りに4作目となる「Bare My Naked Soul」をインディ・レーベルからリリース。
ずっと喉に刺さった骨(プリンス)が取れてスッキリしたのか、このアルバムから骨太ロックを聴かせる”新生ジェシー・ジョンソン”が誕生したと思える1枚で、映画『評決の時』に楽曲提供したりと”活動再開か!”と期待したのですが’00年にベスト盤をリリースするも長期休業状態に入ります。
’07年三度メジャー・シーンに登場
長い沈黙からメジャー・シーンに現れてたのは'07年にジャム&ルイスがプロデュースが全面プロデュースしたチャカ・カーンの「Funk This」で、ジェシーはジミヘンの”Castles Made Of Sand”をジャム&ルイスと共にプロデュース(ギターはもちろんジェシー)、ここで勢いがついたのか'09年に13年振りの新作「Verbal Penetration」をリリースします。
2枚組でリリースされた本作は盟友となったスー・アン・カーウェルを迎え、1枚めは前作を更に濃厚にした捨て曲無しの力作揃い、2枚目にはインスト曲をバックにミネアポリス・サウンドの歴史やインタビューに答える等、原点回帰を図っています。
同年プリンスも自身を振り返る「MPLSOUND」をリリースしたのは相通じているのかもしれないですね。
翌年にはスー・アンの為にアルバム「Blues In My Sunshine」を全面プロデュース、こちらもオススメです。
The Original 7ven (aka The Time)結成そして解散
ジャム&ルイスとの仕事が呼び水となったか'08年に行われた第50回グラミー賞でザ・タイムが再結成しリアーナと共演しました。
’11年にはザ・オリジナル・セヴン(プリンスが名前ザ・タイムという名前を使わせてくれなかった為に改名)で3度目の再結成の証として「Condensate」をリリースします。
メンバーの個性が爆発した力作にも関わらず、僅か2ヶ月でジェシーが脱退してしまいます。
ディアンジェロのバンドに加入
’12年ホワイトハウスで行われたライブに参加
その後、ディアンジェロ(D'angelo)のバンド”ザ・ヴァンガード(the Vanguard)"のメンバーとして活動、’15年のサマーソニック、そして'16年に来日を果たしています。
遂に単独公演
あまりに長過ぎたんで随分削ったんですが、それでも結構な文量になってしまいました😅
プリンスというあまりにも巨大なアーティストが隣にいたため霞んだ感じですが、ジェシーも負けず劣らず素晴らしいアーティストです。
今回のペイズリー・パーク訪問&ライブをキッカケに、もう裏方ではなく表舞台でどんどん作品を発表して欲しいです。
・・・で、こんだけ書いたから行くんでしょ?って事になるんですが、6月の東京行きとモーリスに行く為、色々調整をしたんで残念ながら行けません。
行けないのは残念だけど、この文章で少しでもジェシーに興味を持って足を運び”行って良かったー!”ってなれば幸いです。
Bunker's Music Barで行われたライブの模様
昨年4月にミネアポリスのBunker's Music Barで行われたライブの模様。
これが生で見れるなんてほんと羨ましいです!
ジェシーが演奏する"Purple Rain"はジェシーの複雑な思いを感ざるを得ない泣けるカヴァーです。