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プリンスを支えたミネアポリス・サウンドの立役者、デイヴィッド・Zが78歳で逝去

プリンスの最初期からその才能を支え、数々の歴史的名盤やヒット曲を世に送り出してきたプロデューサー/レコーディング・エンジニアのデイヴィッド・Z(本名:David Bruce Rivkin)が、2026年8月2日夜、カリフォルニア州バーバンクの病院にて感染症の合併症のため亡くなりました。享年78歳でした。

プリンス&ザ・レヴォリューションのドラマーであるボビー・Zの実兄であり、「ミネアポリス・サウンド」の音響的骨格を作り上げた人物の早すぎる旅立ちに、プリンス・ファミリーをはじめ多くのファンから哀悼の意が寄せられています。

追悼デヴィッド・Z

彼が遺した偉大な業績と音楽への多大な貢献を振り返り、謹んで哀悼の意を表します。

プリンスと出会うまでのキャリア

デイヴィッド・Zの音楽キャリアは1960年代、地元のロックンロール・バンド(ザ・チャンセラーズ等)のギタリストから始まりました。
1970年代初頭にはロサンゼルスへ渡り、A&Mレコードの専属ソングライターとしてカントリー・ロックのパイオニアであるグラム・パーソンズと「How Much I've Lied」を共作するなど、着実に実績を重ねます。
1974年にミネアポリスへ戻ると、彼は独学でレコーディング・エンジニアの技術を習得。Sound 80スタジオを拠点に、地元や全米から集まるミュージシャンたちの録音を手掛けるようになりました。

プリンスとの出会いと「ミネアポリス・サウンド」への革新的な貢献

1976年、Sound 80スタジオにて、当時18歳だったプリンスと運命的な出会いを果たします。
プリンスの初代マネージャーであるオーウェン・ハスニーの紹介でデモテープを聴いたデイヴィッドが、その場で曲に合わせてホーンのフレーズを口ずさむと、プリンスは突然スタジオを出ていこうとしました。焦ったハスニーが車の中で「どうしたんだ?」と尋ねると、プリンスはこう語ったといいます。

“David is the only one I want working with me.”
(僕と一緒に仕事をしてほしいのは、デイヴィッドだけだ)

このデモテープの完成度がワーナー・ブラザースとの契約へ繋がり、以後、デイヴィッド・Zはプリンスのサウンド・メイキングにおける不可欠なパートナーとなりました。
1983年8月3日のファースト・アヴェニューでの歴史的ライブ(アルバムPurple Rainに収録された「I Would Die 4 U」「Baby I’m A Star」「Purple Rain」はこの時のライブ録音を編集・加工したもの)の録音や、1986年の全米1位ヒット「Kiss」(Parade収録)の制作は彼の代表作です。

「KISS」誕生秘話

特に「Kiss」の誕生秘話は、彼のプロデュース手腕を物語る象徴的なエピソードと言えます。
元々プリンスがアコースティック・ブルースのスタイルで書いたデモを、サンセット・サウンドの隣のスタジオで作業していたマザラティ(Mazarati)に提供。デイヴィッド・Zとブラウン・マーク(BrownMark)が彼らと共にそのデモを極上のファンク・トラックへと激変させました。
翌朝、そのバージョンを聴いて衝撃を受けたプリンスは急遽曲を回収。ベースやギターソロを削ぎ落とし、自身のファルセット・ボーカルや象徴的なカッティングギターを重ねて完成させましたが、トラックの骨格はデイヴィッド・Zたちが作り上げた音源がそのまま使用されました。
オフィシャルなクレジットは「Arranged by David Z(編曲)」となっていますが、実質的に彼はこの歴史的名曲の「ノンクレジット・プロデューサー」であったと言えます。

LinnDrumのピッチシフトやノイズゲート(Kepex)を駆使した「残響を打ち切る」独自の手法は、ミネアポリス・サウンド特有のタイトで乾いたアタック音を生み出しました。彼はかつて自身の音作りについてこう語っています。

“It’s the sound of ignorance. It’s a sound made up in an isolated atmosphere. We don’t steal from someone in L.A. or New York. From the songs to the licks to the engineering techniques to the cheap mics we use, we’re so different from everyone else.”
(これはルールを知らないこと[無知]が生んだサウンドなんだ。孤立した環境で作られた音なんだよ。僕らはL.A.やニューヨークの誰かの真似なんてしない。楽曲からリフ、エンジニアリングの手法、使っている安いマイクに至るまで、僕らは他の誰ともまったく違うんだ)

プリンス・ファミリー作品への多大な貢献

ペイズリー・パーク・スタジオ期を中心に、彼はプリンス・ファミリーの作品でも多大な腕を振るいました。
前述のマザラティのMazarati(1986年)やザ・ファミリーのThe Family(1985年)、ジル・ジョーンズのJill Jones(1987年)をはじめ、エリサ・フィオリオのI Am(1990年)といったペイズリー・パーク所属アーティストのプロデュース/エンジニアリングを手掛けました。
さらに、元ザ・タイムのジェシー・ジョンソンのソロ作Jesse Johnson's Revue(1985年)や、プリンスの実妹であるタイカ・ネルソンのRoyal Blue(1988年)など、ファミリー周辺の作品にも深く関わり、ミネアポリス・サウンドの表現の幅を多様に押し広げると共に、その魅力を世界へ浸透させる大きな役割を果たしました。

ジャンルを超えた多岐にわたる活躍

デヴィッド・Zの手腕はプリンス関連やR&Bにとどまらず、ポップス、ロック、ブルース、映画音楽に至るまで、幅広いジャンルで発揮されました。

  • リップス・インク(Lipps Inc.)
    全米1位を記録した世界的大ヒット曲「Funkytown」のプロデュース・ミキシングを担当。ツインシティのディスコフロアに自ら足を運んで音の響きをテストし、微調整を繰り返して作り上げたエピソードは有名です。
  • ファイン・ヤング・カニバルズ(Fine Young Cannibals)
    「She Drives Me Crazy」(1988年)において、一度聴いたら忘れられない象徴的なスネアドラム・サウンドを生み出し、グラミー賞最優秀レコード賞にノミネートされました。
  • アーハ(a-ha)
    ノルウェーのポップ/ロックバンドa-haの5thアルバム『Memorial Beach』(1993年)をプロデュース。ペイズリー・パーク・スタジオで録音された本作において、バンドの新たなオルタナティヴ・ロック調のサウンドを引き出しました。
  • エタ・ジェイムズ(Etta James) / ジョン・メイオール(John Mayall) / バディ・ガイ(Buddy Guy)
    ブルース/ルーツ・ミュージックの分野でも高く評価され、エタ・ジェイムズのアルバム制作ではエンジニアとして2度のグラミー賞を受賞しました。
  • 映画音楽への貢献
    ディズニー映画『グーフィー・ムービー/ホリデーは最高!!』の劇中歌(テヴィン・キャンベル)や、ジョン・トラボルタ主演映画『マイケル』(1996年)のサントラ(アル・グリーン等)を手掛けるなど、スクリーンを通しても彼のサウンドが世界に届けられました。

引用・参考記事

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