8月にリリースされたプリンスの未発表音源集『Timeless』を巡る騒動をきっかけに、プリンスの遺産を管理する「エステート」の存在やその複雑な内情を初めて知ったという方も多いのではないでしょうか。
なぜ今このような混乱が起きているのか、これまでの経緯を振り返りながら、一人のファンとしてこれからのエステートに望むことや今後の展望をまとめてみました。
第1章:不在の6年間と遺産分割の混乱――エステート二極化の経緯
プリンスが旅立ってから現在の体制に落ち着くまでの6年間、エステートの裏側では巨額の相続税や法的な争いが絶え間なく続いていました。専門家による銀行管理から、いかにして権利が外部企業と親族側の「50対50」に分かれ、なぜ代理人であるマクミラン陣営が強い実権を握ることになったのか。今の混乱のすべての発端となった、この6年間の歩みをまずは整理してみます。
1-1. 突然の旅立ちと「不在」の始まり
2016年4月21日、プリンスが突然この世を去ったという報せは、世界中に計り知れない喪失感を与えました。生前のプリンスが遺言状を一切遺していなかった事実が明らかになると、その莫大な知的財産と資産の管理は、直ちにミネソタ州カーヴァー郡地方裁判所の管轄下に置かれることになります。
裁判所は中立な特別管財人(Special Administrator)としてまず地元信託会社のブレーマー・トラスト(Bremer Trust)を、続いてコメリカ銀行(Comerica Bank & Trust)を指名しました。唯一の実妹であるタイカ・ネルソンと、5人の異母兄弟姉妹(シャロン、ノリーン、ジョン、アルフレッド、オマール)の計6名が法定相続人として認定されたものの、巨額の資産と複雑を極める権利関係の前に、遺族が直接経営に携わることは許されず、エステートは司法と銀行による信託統治という形でその歩みを始めました。
1-2. コメリカ時代の実績と摩擦
コメリカ銀行の管理下において、遺産のアーカイヴ事業はビジネスおよび学術的見地を持つ専門家チームによって主導されました。専任アーキヴィストのマイケル・ハウ氏らが起用され、ペイズリー・パークの地下保管庫(Vault)に眠る膨大なテープの精査、修復、そして体系的なデジタル化が着実に進められました。
その実務が結実したのが、『1999』(2019年)および『Sign O’ The Times』(2020年)のスーパー・デラックス・エディション(SDE)です。未発表音源に無用な現代的改変を一切加えず、詳細な録音データや歴史的文脈とともにパッケージ化されたこれらのアーカイヴ作品は、批評家とファンの双方から極めて高い評価を受けました。
しかし、銀行組織特有のドライな実務判断は、遺族との間に深刻な感情的亀裂を生むことになります。マスターテープの経年劣化や火災リスクを理由に、音源資産がペイズリー・パークからカリフォルニア州の厳重な保管施設へと移送された措置は、親族たちにとっては「土足で聖地に踏み込まれ、プリンスの魂を奪われた」かのようなショックを与えました。この出来事が、親族たちの間に「銀行支配を終わらせ、自分たちの手で管理を取り戻す」という強い思いを抱かせる契機となります。
1-3. IRS(内国歳入庁)との泥沼の税務係争と親族の疲弊
遺産分割のプロセスを6年もの長期にわたり凍結させた最大の要因は、アメリカ内国歳入庁(IRS)との間で勃発した泥沼の資産評価額争いでした。
管財人のコメリカ銀行側が提出した「8,230万ドル」に対し、IRS側は「1億6,320万ドル」とほぼ倍額の査定を突きつけて対立。双方が最終的な和解に達したのは、プリンスが旅立ってから6年近くが経過した2022年1月のことでした。双方は裁判所の承認を経て、ほぼIRS側の主張を追認する形で1億5,640万ドル(当時の為替レートで約180億〜200億円)という巨額の最終評価額で正式に合意しました。
この莫大な評価額の確定は、直ちに数千万ドル単位の連邦相続税および州税の即時キャッシュ納付を義務付けるものでした。長期に及ぶ裁判で発生した莫大な弁護士費用の請求も重なり、流動資産(現金)を持たない相続人たちは、文字通り破産寸前の経済的困窮へと追い詰められていきました。
1-4. 相続人の分裂とPrimary Waveの参入
莫大な相続税の支払い義務と長引く法廷闘争の重圧は、相続人たちの団結を完全に瓦解させました。
巨額のキャッシュ納付と裁判費用に耐えかね、早期の現金化を選択した相続人たちに対し、持分の買い取りに動いたのがニューヨークを拠点とする大手音楽出版ビジネス企業プライマリー・ウェーブ(Primary Wave)でした。同社はまず2019年に故アルフレッド・ジャクソン氏の持分を買い取り、続いて2021年にはタイカ・ネルソン氏の持分の大半を取得しました。
当時、ニューヨーク・タイムズ紙などが「プライマリー・ウェーブがエステートの約42%に及ぶ権益を掌握した」と大きく報じた通り、この時点で遺産の約4割以上が外部企業の手に渡る事態となりました。
その後、オマール・ベイカー氏の持分売却も合流したことで、プライマリー・ウェーブ側が保有する権益は最終的に全体の「約50%」にまで拡大。これにより、かつて一族のものだったプリンスの知的財産と遺産は、半分が機関投資家の資金をバックに持つ外部の商業ファンドによって握られるという、不可逆的な構造変化を迎えることになりました。
1-5. 親族の後見人となったマクミランと「Prince Legacy LLC」の誕生
一方、権利の売却を断固拒否し、「ペイズリー・パークとプリンスのオリジナルの音楽を家族の手に取り戻す」とメディアの前で誓ったのが、シャロン・ネルソン、ノリーン・ネルソン、故ジョン・R・ネルソンの3名でした。彼女たちがコメリカ銀行支配を終了させ、自らの持分を管理するための法的ブレインとして頼ったのが、かつて生前のプリンスの弁護士およびマネージャーを務めていたL・ロンデル・マクミラン氏(L. Londell McMillan)でした。
2022年8月、カーヴァー郡地方裁判所による管財体制の正式終了が命じられます。エステートの全資産は、プライマリー・ウェーブ側の持株会社(Prince OAT Holdings LLC)と、権利を保持した親族側の持分を束ねた「プリンス・レガシー(Prince Legacy LLC)」の2社へと、完全に均等な「50対50」の比率で引き渡され、両社による共同管理体制が発足しました。
しかし、家族の勝利として華々しく報じられた奪還劇の裏には、親族自身の手足を縛る強固な契約構造が組み込まれていました。マクミラン氏と共同事業者のチャールズ・スパイサー・ジュニア氏(Charles F. Spicer Jr.)は、親族を支援した対価としてPrince Legacy社の持分を各10%(計20%)取得し、同社の「排他的な業務執行役員(Managing Members)」に就任。さらに同社の運営契約(Operating Agreement)には、他メンバーの全員合意がない限り外部への持分売却を禁じるロック条項や、役員の解任には管理者双方の合意が必要とされる極めて強固な防壁が組み込まれていました。
このいびつな権力集中は、すぐに身内同士の衝突を引き起こします。マクミランらの独断専行に危機感を強めた親族側は、持分をPrimary Waveへ売却できるよう社内規則を変更しようと画策し、2023年末には秘密会議を開いて二人を強制解任するクーデターを試みました。しかし、マクミラン側の逆提訴を受けたデラウェア州衡平法裁判所は2024年7月、契約書の文言を根拠に親族側の解任決議を法的に無効と言い渡す判決を下しました(※裁判所の公式判決記録)。
本来の相続人であり大株主である血縁者が実質的な意思決定から完全に締め出され、わずか20%の少数持分しか持たない代理人(マクミランとスパイサー)が、司法の保護のもとで全権を握り続ける――。
この判決は、彼らに「血縁者であっても自分たちを排除できない」という極めて強固な法的防壁を与える結果となりました。
ニューヨークの投資企業に過ぎないプライマリー・ウェーブが現場に直接介入しづらいのをいいことに、ペイズリー・パークの運営、イベントの采配、そして地下保管庫の実務までも実効支配した彼らは、生前の弁護士という立場を盾に、強気な独走体制を固めていったのです。周囲からの牽制が機能しないこのガバナンスのあり方が、やがてファンとの間に大きな溝を生み出す要因となっていきました。
第2章:新体制の船出と、『Timeless』がもたらした波紋
「家族の手へ音楽を取り戻す」と宣言してスタートした新体制でしたが、その道のりは最初からどこか歯車が噛み合っていませんでした。『Diamonds And Pearls SDE』の縮小やNetflixとの長期にわたるトラブル、そして未発表曲のないアニバーサリー盤のリリースなど、ファンとの間には少しずつすれ違いが生まれていきます。そして迎えた『Timeless』で、なぜあのような悲しい出来事が起きてしまったのか。彼らが抱えていた焦りと迷走の背景を振り返ります。
2-1. 最初の躓き:『Diamonds & Love』の半減とファンの失望
2022年にマクミラン&スパイサー体制が実権を掌握して以降、エステートが最初に着手したアーカイヴ事業は、早くも熱心なファンコミュニティに小さな影を落とすことになります。
旧管財人(コメリカ)時代、専門アーキヴィストたちによって入念に進められていたのは、『Diamonds & Love』という仮題のもと、1991年の『Diamonds And Pearls』と1992年の『Love Symbol』という密接に連動した2つの黄金期を包括する、巨大なスーパー・デラックス企画でした。公式なアナウンスこそなかったものの、関係者の証言やリーク情報を通じてその存在を知り、体系的なアーカイヴ公開を心待ちにしていたファンは少なくありませんでした。
しかし、新体制はこの計画を見直し、規模を約半分に削減。リリースを1年以上遅らせた末、2023年秋に『Diamonds And Pearls SDE』単体として世に送り出しました。もちろん同作のリリース自体は歓迎されたものの、前体制が進めていた包括的な構想を縮小・分断させたこの処置は、新体制のアーカイヴに対する姿勢や制作方針に対して、ファンが最初の疑問や不安を抱くきっかけとなりました。
2-2. Netflixドキュメンタリーの暗礁とお蔵入り――「Vault凍結」の2年間
新体制のガバナンス不全は、映像プロジェクトにおいて決定的な破綻を招きます。旧体制下で正式契約されていた、アカデミー賞受賞監督エズラ・エデルマンによる9時間におよぶドキュメンタリー映画『The Book Of Prince』に対し、マクミラン陣営はプリンスの描写に激しく反発。大幅なカットと再編集を要求し、Netflix側と全面対立に突入しました。
この泥沼の法廷闘争は、ファンにとって極めて重い代償をもたらしました。Netflixとの契約に付随していた「保管庫への排他的アクセス権」条項により、係争が続く間、エステートはVaultから新たな未発表音源や未公開映像をリリースする計画を完全に凍結されてしまったのです。その結果、2024年と2025年は、プリンスが旅立って以来初めて「未発表音源を含むアルバムが2年連続で1枚もリリースされない」という異常な空白期間となりました。
2-3. 単発の記念盤:『Around The World In A Day 40th』に見る課題
そのVault凍結の影響が最も如実に表れたのが、2025年11月にリリースされた『Around The World In A Day (40th Anniversary Deluxe Edition)』でした。
歴史的名盤の40周年を記念した拡大版でありながら、未発表曲やアウトテイク、ライヴ映像は1トラックも収録されませんでした。収められたのは既発のB面曲や12インチ・リミックスの寄せ集めに過ぎず、過去のSDEでは標準装備だった未公開写真や詳細なライナーノーツを収めたブックレット、関係者の証言ポッドキャストすら一切制作されませんでした。
音響面を見れば、リマスターには1980年代の黄金期からプリンスの名盤群を手掛けてきた伝説的マスタリング・エンジニアのバーニー・グランドマン氏(Bernie Grundman)を、空間オーディオ(Dolby Atmos)のリミックスには晩年の『HITnRUN Phase Two』などでスタジオを支えたクリス・ジェームズ氏(Chris James)を起用するなど、生前のプリンスと直に作業を共にしてきた最高峰のエンジニア陣を揃えていました。
しかし、どれほど現場に確かな技術者を配しようとも、未発表音源を一切含まないこの再発盤に対し、全米アルバムチャート(Billboard 200)は初登場176位という極めて厳しい結果を突きつけることになります。
後にマクミラン氏らが明かしたところによれば、当時はNetflixとの係争による契約上の縛りから未発表音源を出すことが法的に叶わず、40周年のアニバーサリーに何かを届けたいという思いから送り出した“苦肉の策”だったとされています。
とはいえ、そうした裏事情を当時はファンに向けて説明できなかった(あるいは契約の守秘義務により公表できなかった)こともあり、未発表曲の不在やブックレットすらない簡素な仕様は、ファンコミュニティには単なる手抜きやアーカイヴの軽視と映ってしまいました。エステート側の苦衷とファンの期待との間に生じたこの決定的なすれ違いが、新体制に対する不信感をより一層強める結果となってしまったのです。
2-4. 「Vault解放」の実態と、新体制初の実績作りに向けた焦り
転機が訪れたのは2025年2月6日でした。エデルマン監督のNetflix映画のお蔵入り(公開中止)が正式発表され、長年エステートの手足を縛っていた独占契約の足かせが消滅したのです。エステート公式SNSは「The Vault Has Been Freed. #FREE(保管庫は解放された)」と投稿し、マクミラン氏自身もメディアに対して「Vaultは自由になった」と勝利宣言を放ちました。
しかし、この解放宣言は、マクミラン陣営にとって後戻りのできないプレッシャーの始まりでもありました。 前体制の遺産の縮小でもなく、Netflixのせいにもできない状況下で、「2022年の新体制発足以降、自分たちがゼロから企画・主導した最初の未発表音源アルバム」を成功させ、プライマリー・ウェーブや不満を鬱積させる親族、そして世界中のファンに対して自らのプロデュース能力を証明しなければならなくなったのです。
そうした焦りやプレッシャーの中で立ち上げられたプロジェクトこそが、2026年6月の〈Celebration〉で全貌が明かされたアルバム 『Timeless』でした。
2-5. 不透明なオーバーダブと、発売日を巡る説明の食い違い
2026年8月28日、ペイズリー・パークで開催された『Timeless』発売記念リスニング・パーティーの壇上において、マクミラン氏は収録曲「Calabama」について「2024年のCelebrationで流した際、会場から熱狂的な大反響があったことが決め手となって収録を決めた」と説明しました(※実際に2024年6月27日付『ミネソタ・スター・トリビューン』紙でも、同曲が未発表アルバム『Calibama』からの楽曲として試聴され好評を博した事実が報じられています)。そして共同代表のスパイサー氏が、来場者と世界中のファンに向けて「Vaultから取り出した音源には何も足しておらず、何も編集していない(nothing added, nothing edited)」と公然と宣言しました。
しかし、その公約は事実と異なっていました。
2024年にファンの心を動かしたのはプリンス本人が仕上げた手つかずのオリジナルであったにもかかわらず、エステート首脳陣は本作のリリースにあたり、生前の音源に現代のホーンセクションを追加録音させていたのです。参加したグレッグ・ボイヤー氏による「今年(2026年)になって依頼され録音した」という発言によって録音の事実が明らかになると、「実際にリリースされたバージョンにはホーンの追加が含まれていることを確認いたしました。したがって私の発言は正確なものではなく、自らの発言について責任を重く受け止めております」と自らの発言の誤りを認め、釈明に追われることとなりました。
さらに2026年9月4日、エステート(NPG Records / マネジメント)は公式声明を発表。今後はどのようなオーバーダブや編集が行われたのか詳細なクレジットを明記していくと釈明したものの、「未完成の音源を現代の技術やミュージシャンの手を借りて完成形に近づける」というプロデュース方針そのものは今後も継続していく姿勢を崩しませんでした。
(※この「Calabama」を巡るオーバーダブの発覚から各者の発言、公式声明に至る詳しい経緯については、こちらの記事をご参照ください)
本作のクレジットにおいて、マクミラン氏とスパイサー氏は、現場で実務を担ったクリス・ジェームズ氏と並び、自ら「コンピレーション・プロデューサー(Compilation Producer)」として名を連ねています。プロデューサーとしての名誉と権限を握りながら、壇上で事実と異なる説明を行い、後から釈明と方針の正当化を図る姿勢は、ファンコミュニティとの間に決定的な信頼の断絶を生み出すこととなりました。
「家族の手へ音楽を取り戻す」「オリジナルの音楽を守る」と誓って始まったはずの新体制でしたが、周囲の目が届かないところで自らその音に手を加え、ファンに事実と異なる説明をし、最後にはその方針さえ正当化してしまう――。当初掲げられたはずの理想は、あまりにも皮肉な矛盾を抱え込むことになってしまいました。
第3章:これからのエステートに望むこと
『Timeless』の騒動を経て、エステートの今後について私自身、改めて深く考えさせられました。
水面下で動向を窺うプライマリー・ウェーブの存在、これから予定されているプロジェクトの行方、そして大切なアーカイブの未来。単に誰かを責めるのではなく、プリンス・ファンの一人として、これからのエステートがどう歩んでいくべきなのか、私なりの視点で展望をまとめてみます。
3-1. 沈黙を続けるPrimary Wave:彼らは「どこでどう動く」のか
発売直後、熱心なファンによる購入によって米iTunesのアルバムチャートでは一時10位を記録した『Timeless』。
しかし、ストリーミング再生などを含めた本国の総合アルバムチャートであるBillboard 200では200位の圏外という、極めて厳しい現実を突きつけられることになりました。
こうしたセールス面での苦戦に加え、発売直後に明るみに出たオーバーダブ騒動とそれに伴うファンの反発に対し、エステートのもう半分の権利(50%)を握るプライマリー・ウェーブ(Primary Wave)は、現在に至るまで公の場での発言を控え、今なお沈黙を保っています。
彼らが公に動かない背景には、投資企業としての現実的な計算があると考えられます。投資ファンドである彼らにとって最優先事項は「投じた資本の回収と利益の最大化」です。もし今マクミラン陣営と公然と対立し、再び法廷闘争へ突入すれば、せっかくNetflixの縛りから解かれたVaultが三度(みたび)凍結され、リリースの停止によってキャッシュフローが途絶えてしまいます。泥沼の裁判コストとリリースの遅延を避けるため、彼らは現時点で「静観(待ち)」の姿勢を取っているのではないでしょうか。
しかし、彼らが永遠に沈黙を守るわけではないとも考えられます。マクミラン氏が米ローリング・ストーン誌のインタビュー(※有料記事)などで明かしている通り、エステートは年末に控える企画や、ファンが長年渇望している『Parade』のスーパー・デラックス・エディション(SDE)など、今後のリリース計画を着々と進めています。
プライマリー・ウェーブが動くかどうかの分岐点は、まさに「これら今後のプロジェクトがもたらす商業的結果(数字)」にあると見るのが自然です。
もし『Timeless』での不信感が尾を引いてファンの買い控えが起き、今後の作品でも未発表音源の改変が続いてブランド価値の失墜が決定的となった場合、彼らにとってマクミラン陣営の独走は「自らの資産価値を損なう看過できないリスク」へと変わります。
その際、もう一つ見逃せないのが親族たちの存在です。
第1章で触れた通り、シャロンら親族側はデラウェア州の判決によって手足を縛られ、単独でマクミランらを排除することは叶いません。しかし、「敵の敵は味方」という言葉があるように、かつて親族側がプライマリー・ウェーブへの持分売却を模索した経緯を振り返れば、両者が水面下で手を結ぶ可能性は十分に考えられます。
もしプライマリー・ウェーブが「ブランド価値の毀損(善管注意義務違反)」を理由に本格的な法的アクションへ踏み切るならば、外側のプライマリー・ウェーブ(50%)と内側の親族(30%)が共闘し、20%の持分しか持たないマクミラン陣営を挟み撃ちにする――そんなシナリオも、あながちあり得ない話ではないのかもしれません。
3-2. 「餅は餅屋」――コメリカ時代の成功に学ぶべき役割分担
ですが、私は決してマクミラン氏やスパイサー氏をエステートから引きずり下ろし、失脚させたいわけではありません。彼らが排除されたところで、新たな権力闘争が勃発してペイズリー・パークの運営資金が枯渇し、さらなる第三の資本が介入してリリースが何年もストップするような事態は、ファンとしても絶対に避けたいからです。
望んでいるのは排斥ではなく、健全な「軌道修正」です。
やはり「餅は餅屋」なのだと思います。マクミラン氏らの強みは、かつてプリンスを支えた法務知識や権利交渉、そしてペイズリー・パークという拠点を維持・運営していくビジネスの実務にあります。彼らはその得意分野に専念し、エステート全体の大きな方向性を差配することに注力すべきなのです。
一方で、Vaultの扉を開き、プリンスの遺産を形にしていく現場は、専門知識を持ったアーキヴィストと音響チームに委ねるべきではないでしょうか。
誤解のないように言えば、今回の『Timeless』で音響実務を担ったクリス・ジェームズ氏を信頼していないわけではありません。プリンスとスタジオで直に作業を共にしてきた彼や、1980年代の黄金期から音を支え続けるバーニー・グランドマン氏の確かな技術と実績は、今もエステートにとって替えの利かない財産です。
問題だったのは、現場の技術者たちに「未完成だから音を足して完成形に近づけよう」と命じてしまった、プロデューサー陣のディレクションそのものです。
振り返れば、没後のリリースで世界中からもっとも称賛を浴びたのは、コメリカ銀行が管理していた時代でした。あの時、公式アーキヴィストであるマイケル・ハウ氏がテープの選定から歴史的文脈の考証までを徹底して守り抜き、バーニー・グランドマン氏ら名エンジニア陣と手を携えたからこそ、『1999』や『Sign O’ The Times』のSDEという歴史的傑作が誕生したのです。
経営陣が自ら音のプロデュースに過度に介入するのではなく、マイケル・ハウ氏のような、マイケル・ハウ氏のような歴史への敬意を持ったアーキヴィストを正当に立て、現場のエンジニアたちの技術を「オリジナルの保全」のために純粋に活かせる環境を整える――。かつての成功モデルに立ち返ることこそが、今マクミラン陣営に最も求められている英断だと思います。
3-3. 未発表音源は「天才のスケッチ」そのもの
エステート側が打ち出した「未完成の曲に現代の手を加えて完成形に近づける」という方針には、やはりどうしても違和感を覚えてしまいます。
美術館に足を運んだとき、ゴッホやピカソの習作やスケッチを見て「本人が完成させていない」と非難する人はほとんどいません。完成した名画だけでなく、天才が試行錯誤した創作の過程そのものがかけがえのない文化遺産であると、誰もが自然に受け止めているからだと思います。
そもそも、何をもって「完成」とするのかは本人にしか分かりません。たとえば「Face Down」のように、歌詞で「Horn!」と呼びかけながらシンセサイザーを鳴らすのは、初期から貫かれてきた“ミネアポリス・サウンド”の美学であり、プリンス特有のウィットでした。周囲が「本物のホーンが入っていないから未完成だ」と判断したとしても、プリンスにとってはあのシンセの響きこそが意図された完成形だったかもしれないのです。
たとえ作業が途中で止まっているように見えても、プリンスがその瞬間にテープへ刻んだ音そのものに価値があります。現代のミュージシャンがどれほど腕利きであっても、後から別の音を重ねる必要などありません。プリンスが遺したスケッチをそのままの姿で受け止めることこそが、アーカイヴに向き合う誠実さなのだと思います。
3-4. ペイズリー・パークを守り、生きた証を次代へ繋ぐために
プリンスが旅立ってからの10年間、ファンの間では常にひとつの大きな問いが投げかけられてきました。「本人が生前に発表しなかった音源を、私たちが聴くことは本当に正しいのだろうか」という葛藤です。
「本人が出さなかったものは永遠に封印すべきだ」という厳格な思いも、「未発表のスタジオ曲には抵抗があっても、一度ファンの前で鳴らされたライブ音源なら受け入れられるのではないか」という思いも、すべてはプリンスの美学を深く愛し、尊重したいと願うからこそ生まれる、とても純粋で共感できる視点です。
ただ、プリンスの音への徹底したこだわりを振り返ると、その境界線はどこまでもデリケートです。プリンスが公式リリースした『One Nite Alone... Live!』やそのアフターショー盤、あるいは『Indigo Nights』などを思い返しても、単に一つの公演をそのままパッケージしたものはほとんどありませんでした。複数のステージから本人がベストテイクを選び抜き、緻密に編集を重ねて初めて「ひとつの作品」として世に問うていたのです。一瞬の演奏ですら自らの完全なコントロール下に置こうとした彼の厳格さを思えば、ライブ音源であってもスタジオのアウトテイクと同じくらい、取り扱いには慎重な敬意が求められます。
どこまでが許容され、どこからが踏み込みすぎなのか――その問いに唯一の正解はなく、ファンの数だけプリンスへの敬意の形があるのだと思います。
そうした葛藤を抱えながらも、私自身が公式リリースを歓迎したいと考えるのは、何よりもまず一人のファンとして、まだ聴いたことのない彼の歌声や音に触れたい、彼の音楽をいつまでも感じていたいという純粋な願いがあるからです。
そして同時に、作品を適正な対価で購入することが、ペイズリー・パークを維持し、アーカイブの散逸を防ぐための現実的な支援に直結しているからでもあります。もし私たちが頑なに扉を閉ざし、エステートが資金難に陥ってしまえば、ペイズリー・パークの運営そのものが立ち行かなくなり、遺された膨大な記録や衣装、楽器が散り散りになってしまう最悪の事態も起こり得ます。
彼の生きた証をあの場所に留め、色褪せない文化遺産として次の世代へと手渡していく。そのためにも、私たちはプリンスへの愛意が込められた誠実な公式リリースを支えていきたいのです。だからこそエステート首脳陣には、ファンの信頼を損なうような改変ではなく、オリジナルの尊厳を徹底して守る姿勢を取り戻してほしいと願っています。
エステートとファンは、決して対立する存在ではありません。プリンスが遺してくれた宝物を、あるがままの姿で未来へ繋いでいく――この混乱の先に、互いが同じ敬意を共有できる新たな信頼関係が結ばれることを、長年彼の音楽を追い続けてきた一人のファンとして、心から願っています。