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Blog Column

『Timeless』に寄せて:プリンスの遺産を預かるエステートへ願うこと

先日、当サイトにてエステートの共同管理人であるL. ロンデル・マクミラン氏の最新インタビュー記事を掲載しました。

参考プリンス・エステートのL・ロンデル・マクミラン氏が語る『Timeless』と今後のリリース計画

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そこで語られたエステートの考え方や今後の展望、そしてファンに対する認識を読み解き、さらに最新の発掘盤『Timeless』を聴き終えた今、胸に残るのはプリンスが残してくれた音楽そのものへの深い畏敬と、それを送り出すエステートの姿勢に対する拭いきれないもどかしさです。

参考Timeless / タイムレス ('26)

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もし本作が高い評価を得るとすれば、それはひとえに「プリンスの残した楽曲が圧倒的だったから」に他なりません。
どれほど時が流れても、ひとたび音が鳴り響けば一瞬で空気を変えてしまう魔力があります。だからこそ、その音楽の力に寄りかかりすぎて、作品としての必然性を少し手放してしまっているのではないかと感じてしまいます。 長年プリンスの音楽を愛し、その疾走を見届けてきた一人のファンとして、現在のエステートに伝えたい思いを綴ってみました。

プリンスの遺産を預かるエステートへ願うこと

1LPという枠組みと「余り物」という言葉の重み

本作は「5つの年代を横断するキャリアの集大成」という壮大な看板を掲げています。
しかし、収められたのはわずか10曲。アナログ盤1枚(1LP)のコストや販売しやすさを優先した結果、40年にも及ぶ豊かな歴史が、ずいぶんと窮屈な枠に押し込められてしまったように感じます。コアファン向けの80年代未発表曲と、若い世代を意識した近年のモダンな楽曲を同居させながら、どちらの層にも届きにくい中途半端なダイジェスト盤になってしまった印象です。

さらに残念だったのは、マクミラン氏がインタビューで「今後の大型プロジェクトで使う予定のない曲を選んだ」と語ってしまったことです。先のリリースへの期待を持たせるつもりだったのかもしれませんが、この言葉は『Timeless』の10曲に「他で使えなかった余り物」という影を落としてしまいました。最初期の「I Am You」から生前ラストのライヴまで、収録された曲はどれも素晴らしいものばかりです。楽曲に何の落ち度もないのに、送り出す側の言葉でその価値を下げてしまうのは、あまりにもったいなく思えてなりません。

失われたキュレーションとアートワークの美学

かつてプリンス自身がまとめた『The Vault... Old Friends 4 Sale』(1999年)は、契約消化のための発掘盤でありながら、時代とトーンを丁寧に揃えることで、ひとつの独立した作品としての美しさを保っていました。また、旅立った後にリリースされた『Originals』(2019年)も、「他者への提供曲」という明確なテーマがあったからこそ、ソングライターとしての偉大さがまっすぐに伝わってきました。

それらと比べると、本作には「なぜ今、この10曲なのか」という筋の通った物語が見えにくくなっています。

さらに気がかりなのは、音源の記録としての正確性や透明性です。発売日にペイズリー・パークで行われたリスニング・パーティーのステージ上で、エステート側はファンからの質問に対して次のように断言していました。

以下スパイサー氏の発言

それでは第1問です。『Timeless』に収録されている楽曲に対して、変更や編集、補作、あるいはリミックスなどは、もし行われているとすればどの程度手が加えられているのでしょうか?

世間で色々と言われているかもしれませんが、それとは異なり、これらの音源はすべて、元々録音されていたフォーマットからそのまま取り出されたものです。何も追加されていませんし、編集も一切行われていません。

皆さんがよくご存じの曲でも、プリンス自身が別のヴァージョンを作っていたケースがあります。ですから、このアルバムで聴けるものは、実際にその曲のマルチトラック・マスターテープから起こした音源です。お馴染みのヴァージョンとは異なっているかもしれませんが、私たちはそうやって制作しました。AIなどは一切使用していません。彼がやっていたのと同じようにオーセンティック(忠実)に、ステム(※ドラムやボーカルなどパートごとに分かれた音源データ)を立ち上げてリミックスとリマスターを行っただけです。

しかし、実際の作品データには不可解な矛盾が存在します。例えば「Calabama」のライナーノーツには「2003年1月録音」と記されている一方で、ホーン隊には2012年以降にしかプリンスと共演していないNPGメンバー(エイドリアン・クラッチフィールド、リン・グリセット)の名が並んでいます。
さらに決定的だったのは、クレジットされているトロンボーン奏者のグレッグ・ボイヤー本人が、SNS上でファンからの質問に答えた内容でした。

ファン:「ライナーノーツにある通り、2003年に録音されたの?(『Musicology』の前?)」

グレッグ・ボイヤー:「数ヶ月前に自宅の地下スタジオで録音したよ。ライナーノーツは読んでいないんだ」

長年プリンスを支えてきたグレッグが、この段階でわざわざ嘘をつく理由などどこにもありません。さらにデータベースサイト「Prince Vault」の記録を見ても、2024年のセレブレーションでVIP向けに先行試聴された「Calabama」にはホーンが入っておらず、本作のために2026年に追加録音された事実が記されています。当然ながら、海外のファンコミュニティ(prince.org)などでもこの食い違いは大きな波紋を呼びました。

こうしたファンの追及を受ける形で、スパイサー氏は自身のSNSで急遽、発言を訂正する声明を投稿することになりました。

【スパイサー氏による声明の全文訳】 >

先ほど私が申し上げた発言について、訂正したい点があります。

私は「Calabama」に関して、いかなる編集も追加も行われていないと述べました。

その後、実際にリリースされたバージョンにはホーンの追加が含まれていることを確認いたしました。したがって私の発言は正確なものではなく、自らの発言について責任を重く受け止めております。

追加されたホーンの演奏は素晴らしく、プリンスと活動を共にしたミュージシャンたちによって演奏されたものであり、彼らの貢献はとりわけ意義深いものです。

リリースの過程において、別バージョンやアレンジが採用されるケースは今後もあるかもしれません。しかし同時に、オリジナルの録音素材が真正(オーセンティック)であり続けること、そして何らかの追加や変更が行われる場合は、それが意図的であり、明確に理解・承認されたものであることが私たちにとっても極めて重要です。

ファム(熱心なファン)の皆様の情熱、細部への鋭い着眼点、そしてプリンスとこれらの録音作品へ注ぎ続けてくださる惜しみない愛に、心より感謝申し上げます。Rock On! ✌🏾

誤りを認めたこと自体は受け止めたいと思います。しかし、この声明によって浮き彫りになったのは、エステートという組織の「管理能力」に対する極めて深刻な疑問です。

何より不可解なのは、その「時間軸」です。アルバム発売日である8月29日、スパイサー氏とマクミラン氏はペイズリー・パークのリスニング・パーティーに出席し、ファンと共に完成したアルバムを聴いた上で「何も追加していない」と断言していました。ところが、ネット上で矛盾を追及され逃げ場を失った末、数日後の9月2日になって突如「リリース版にホーンが追加されていたことを後から確認した」と釈明したのです。

アルバムの「コンピレーション・プロデューサー」としてクレジットされている最高責任者が、「知らなかった、後から確認した」などという言い訳は到底通用しません。もし知っていてあの場でファンに嘘をついたのであれば極めて悪質ですし、仮に本当に知らなかったのだとすれば、自分たちが販売する音源の制作実態すら把握していなかったという、完全な職務怠慢とガバナンス崩壊を意味します。

そもそも、プリンスが遺したオリジナルの録音に、没後10年も経ってから他人がホーンを足す音楽的必然性がどこにあったのでしょうか。そうした不必要な手を加えるからこそ、「プロデューサーとしての実績作り」や「不透明な制作上の思惑」があったのではないかと、余計な不信感や疑念を招いてしまうのです。

さらに声明文にある「今後も別バージョンやアレンジが採用されるケースがあるかもしれない」という言葉には、強い危機感を覚えます。音質を向上させるための丁寧なリマスターなら誰もが歓迎しますが、他人が後から手を加えてアレンジを変えてしまうような行為は、プリンスが命を削って遺したオリジナルに対する冒涜ではないでしょうか。

マクミラン氏はインタビューの中で、「私が直面する最大の課題は、プリンスが望んでいたこと、ファンが求めるもの、そして商業市場の要求のバランスを取ることです。しかし、10回中10回、私はプリンス本人が望んだであろう道を選びます」と語っていました。

しかし、今回のオーバーダビングを果たしてプリンス本人が望んだでしょうか。

細部に至るまで自らの音を完璧にコントロールし、独自の美学を貫き通したプリンスが、自らの死後に他人が勝手にホーンを付け足すような真似を望むはずがありません。「プリンス本人が望んだ道」という言葉を掲げながら、実際に行われていることが彼の遺志と真逆の行為であるならば、その言葉はあまりにも空虚に響きます。

重大な説明責任の破綻と管理ミスを釈明する場でありながら、声明文を「Rock On! ✌🏾」というピースサインで結んでしまう軽さにも、大きな違和感が残ります。自分たちの招いた事態の重さを理解しておらず、まるで悪びれていないかのような態度は、誠実な向き合い方を求めてきたファンの気持ちを逆なでするものに映ってしまいます。

アートワークについても同じことが言えます。制作側は「どの時代とも結びつかない象徴的なビジュアル」としてシルエットを採用したそうですが、あのシルエットだけでプリンスだと分かるのは、すでに彼を深く知っているファンだけではないでしょうか。音楽とともに自らのビジュアルやスタイルを鮮やかに変化させてきたプリンスだからこそ、5つの年代を掲げるのであれば、当時の写真を使ったジャケットや丁寧なブックレットで、その歴史の移り変わりを見せてほしかったと感じます。

1996年にプリンスを不当な契約から解放した法律家としてのマクミラン氏の功績には、今もファンとして心から感謝しています。ですが、「優れた弁護士であること」「音楽の歴史的価値を読み解く選曲家であること」、そして「アーカイヴを厳格に管理できる責任者であること」は、全く別の能力のはずです。

かつて過去のスーパー・デラックス・エディション(SDE)が世界中で絶賛された背景には、確かな専門家の存在がありました。音源を歴史的遺産として守り、安易な改変を決して許さなかった専任アーキビストのマイケル・ハウ氏(Michael Howe)、そしてスタジオ日誌シリーズの著者として知られるプリンス研究の第一人者、デュエイン・チューダール氏(Duane Tudahl)です。直近のDiamonds and Pearls SDEでも、トゥーダール氏がスパイサー氏と共に「Archival Producer / A&R」としてクレジットされていたからこそ、綿密な時代考証と音源の真正性が保たれていました。

しかし今回の『Timeless』では、そうした外部の厳しい視線と深い知見を持つ専門家たちの姿が制作クレジットから消えています。エステート幹部と内輪のスタッフだけで選曲や制作を完結させてしまったことこそが、キュレーションの崩壊を招き、没後の追加オーバーダビングや、最高責任者自身が実態を把握していないという杜撰な管理体制を生んでしまった根本的な原因ではないでしょうか。

歴史的文脈や客観的なドキュメンテーションを軽視し、内輪の都合だけで保管庫の扉を開けてしまう姿勢には、どうしても大きな不安を覚えてしまいます。

デジタルの先駆者だったプリンスと、現代の配信のあり方

思えば2001年、プリンスは〈npg music club〉を立ち上げ、今のサブスクリプションを先取りするような仕組みで世界中に音楽を直接届けていました。彼は誰よりも早くネットの可能性を信じ、音楽の届け方そのものを変えていこうとした人です。

若い世代にプリンスの素晴らしさを知ってほしいのなら、レコード1枚の枠に無理にこだわる必要もなかったはずです。もちろん、私のような古いファンにとっては手元に残るフィジカルのリリースは何より嬉しいものですが、新しい世代へ届けることを考えるなら、ダウンロードや配信など、もっと自由で豊かな届け方もあったのではないでしょうか。

もしエステートがその精神を受け継いで、Vaultの音源をきちんと届けてくれる公式プラットフォームや会員制の配信を作ってくれたなら、世界中のファンは喜んでその価値に対価を払うはずです。

ファンの真意と、置き去りにされたプリンスの遺志

インタビューの中で「ファンの欲望は底なしだ」という言葉がありました。ですが、ファンは決して無理な我が儘を言っているわけではありません。

私たちにとって、プリンスが旅立った瞬間に「彼が走り抜けたマラソンのゴール」はすでにしっかりと見届けています。いま私たちが過ごしているのは、その偉大な足跡の余韻をゆっくりと噛み締める時間です。

だからこそ、残された大切な宝物に敬意を払いたいのです。古びたテープの修復やデジタル化、権利の整理に大変な時間と手間がかかることは、ファンもよく分かっています。それでも、プリンスの最大の魅力である「ライヴ音源」のリリースがどうして後回しになってしまうのか、疑問が残ります。

何より、プリンス自身が2016年4月、最後に「ライヴ盤としてリリースしたい」と語り、TIDALで音源を先行配信していた〈Piano & Microphone tour〉のアトランタ公演という明確な約束がありました。没後10年という大切な節目の年にこそ、そのかけがえのない記録を完全な形で届けてほしかったと思います。

参考プリンスがライブCDをリリースする?!

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安易なブランド消費よりも、本人の記録を

現在エステートが進めているミュージカルや映画といった大きな企画、そして『Timeless』に合わせて公式ストアに並んだたくさんのTシャツや帽子、マグカップなどのグッズ展開にも、少し首を傾げてしまいます。

グッズを作ること自体が悪いわけではありません。ただ、肝心のアルバムが10曲のダイジェストにとどまっている中で、ロゴの入った商品ばかりが次々と並ぶ様子を見ると、プリンスが「偉大な音楽家」ではなく「手軽なキャラクター」として消費されているように見えて切なくなります。

また、マイケル・ジャクソンのようなポップスターと違い、ステージ上で閃きと即興を繰り広げていたプリンスを、誰かが演じることにはどうしても無理があります。ミネアポリスでの先行上演が地元の熱心なファンを納得させられなかったことも、その難しさを物語っているのではないでしょうか。

参考プリンス主演映画『Purple Rain』のミュージカルが2027年春にブロードウェイ上演へ

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セレブレーションで『Parade』40周年を匂わせながら何も発表しなかったり、貴重な映像を会場に来た人だけの囲い込みにしてしまったりする手法も、長年応援してきた世界中のファンとの信頼関係を少しずつすり減らしてしまうのではないかと心配になります。

適材適所の原則へ立ち返り、保管庫(Vault)の尊厳を守るために

ここまで明らかになった事実と制作プロセスの破綻を前にして、私たちはもはや「仕方がない」と見過ごすことはできません。

今回の事態が突きつけている教訓は極めて明確です。マクミラン氏やスパイサー氏が果たすべき真の役割は、権利の保全やビジネスの法的な交通整理といった「管理業務」に専念することであり、決して自らをプロデューサーに仕立て上げて音楽そのものに手を加えることではありません。

アルバムの選曲、未発表音源の精査、そして記録の正確なドキュメンテーションは、プリンスの音楽史とセッションの全貌を熟知した専門のアーカイビストや研究者にこそ委ねられるべき聖域です。かつてのマイケル・ハウ氏やデュエイン・チューダール氏がそうであったように、外部の厳格な視線と学術的な誠実さを持った専門家が手綱を握ってこそ、保管庫の音源は初めて「歴史的遺産」としての正当性を保つことができます。

プリンスが命を削って遺した膨大なアーカイヴは、幹部の個人的な功名心を満たすための素材でも、安易な思いつきでアレンジを施してよい未完成品でもありません。

自分たちの限界を認め、作品の制作現場からは潔く身を引いて、適材適所で本物の専門家に全権を委ねること。それこそが、エステートが今果たすべき最大の責任であり、プリンスが遺した音楽を本当の意味で「タイムレス(永遠)」なものとして未来へ繋ぐ唯一の道ではないでしょうか。

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