プリンスは35歳の誕生日を迎えた1993年6月7日に自らの名前を葬り(Love Symbol)に改名する事を宣言しました。
30年前に起きた改名騒動の事を、プリンスの広報担当だったマイケル・パグノッタ(Michael Pagnotta)と、ワーナー・ブラザーズ・レコードのクリエイティブ・サービス上級副社長で、後に同レーベルのゼネラル・マネージャーとなったジェフ・ゴールド(Jeff Gold)が語りました。
Prince's Symbol: Why He Changed His Name, and What Happened Next
variety.com
シンボル・マークに改名したプリンス
プリンスが改名した動機は長年の在籍していたワーナー・ブラザーズ・レコードとの契約を解除するための策略と言われていました。
改名の為に出版会社にシンボルマーク入りのフロッピーを送る
プリンスは改名に対し以下のように声明を発表しました。
It is an unpronounceable symbol whose meaning has not been identified.
It’s all about thinking in new ways, tuning in to a new free-quency.このシンボルは、まだ意味が特定されていない発音不可能なシンボルだよ。
新しい方法で考えること、新しいフリークエンシーにチューニングすることなんだ。
プリンスは用意周到で、メディアに向けてのフォントが入ったフロッピー・ディスクを送付(CompuServeを通じてダウンロードにも対応)、メディアを完全に掌握。
フロッピー・ディスクについてシンボルマーク制作の経緯をスタッフが語る
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メディアは発音出来ないマークに対し"かつてプリンスと呼ばれたアーティスト(The Artist Formerly Known as Prince)"と呼んだり、声に出さずロゴが書かれたパネルを見せていました。
主要な2つの問題を解決しようとしなかったワーナー
ワーナー・ブラザーズはプリンスが要求していた2つの問題を解決しようとしていませんでした。
- プリンスが望むほど頻繁に音楽をリリースできないこと。
- プリンスではなく会社(ワーナー)がプリンスの録音物の権利を所有していること。
プリンスはアルバム「」がリリースされる約1ヶ月前の1992年8月31日にワーナーと当時音楽業界では歴代最高額と言われる約1億ドルで再契約、更にワーナーのA&R(アーティストおよびレパートリー)部門担当副社長に任命したばかりの頃でした。(公表されたのは9月4日)
1億ドルの契約についてLove Symbol / ラヴ・シンボル ('92)
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プリンスの不満はますます高まり、彼は自分の顔に「Slave(奴隷)」という文字を描くようになり、最終的には1996年の契約終了と同時にワーナーを去りました。
当時の様子を振り返る
マイケルとジェフは1億ドルの契約を終えたあと、プリンスが改名した時のことを振り返っています。
ジェフが語る「Diamonds & Peals」のアートワーク案
私は1990年、「Graffiti Bridge」のアルバムと映画が公開された頃にワーナー・ブラザーズで(プリンスと)仕事をしたのですが、彼らはこじれたんです。そこで(ワーナーのCEOだったモー・オスティンと社長のレニー・ワロンカーは)プリンスと腹を割って話し合い、基本的には「いいかい、君は今キャリアが不安定な時期で、これ以上売れないと困るんだ。」と言いました。私たちと一緒に仕事をすれば、君を助けることができる」と話したんです。プリンスは同意し、彼らと(トップエグゼクティブの)マイケル・オースティンとベニー・メディナは、基本的に彼の次のアルバム「Diamonds and Pearls」のA&Rを担当することになりました。
プリンスはアルバム・ジャケットの案を送ってきたのですが、それは基本的に、彼の顔を正方形にきつく撮ったもので、逆ピースサインをして、2本の指の間に舌を突っ込む(ある性行為を表す世界共通のシンボル)ものでした。
”これはマズイ”と思ったジェフは、プリンスの元を訪れ自分が手掛けたアーティストのCDを持っていき自分ならもっと上手くやれると提案。
手にとったプリンスは“これはクソだ、あれは古臭い、こんな風に見えるようになれというのか?これがそんなにいいものだと思うのか?(This is shit… That’s ancient… You want me to look like this? You think this is so great?)”と貶しながら次々と見ていくのですが、4分の3ほど進んだ所でスザンヌ・ヴェガに提供し、グラミー賞を受賞した「Days Of Open Hand」のホログラム・スペシャル・パッケージで目が止まりました。
https://www.discogs.com/ja/release/2386183-Suzanne-Vega-Days-Of-Open-Hand
www.discogs.com
“これは凄くいい。なぜホログラムがないんだ (This is really good. Why can’t I have a hologram?)”と気に入り、ホログラム仕様の「Diamonds & Pearls」のパッケージが完成しました。
参考Diamonds & Pearls / ダイアモンズ&パールズ ('91)
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ホログラムの撮影をしサンプルを見せに行った時プリンスはリハーサル中で、喜んだプリンスは同席したベニーをソファーに促すと、15フィートほど離れたところから45分か1時間の演奏を鑑賞。この体験はジェフの人生の中でも素晴らしい経験のひとつだったと語っています。
マイケルが語るプリンスとの出会いとワーナーとの問題
出会いのキッカケはイングリッド・シャヴェイズ
マイケルはプリンスの広報を担当していたジル・ウィリス(Jill Willis)が在籍していたロジャース&コーワンの同僚で、エリック・リーズとイングリッド・シャヴェイズは、イングリッドがレニーと共作しマドンナが歌った”Justify My Love”に共作者としてクレジットされなかった案件を担当。イングリッドの有利に向けた手腕を気に入ったプリンスは、マイケルが独立した6ヶ月後に声をかけられたそうです。
彼(プリンス)と初めて出会ったのはペイズリー・パークで、彼はリハーサル中でした。彼がステージを横切ると、誰かが "彼はマイケル・パグノッタ、あなたの新しい広報です "と言ったんだ。彼は文字通り手を差し出し、私と握手して歩き続けました。彼は体を反らすこともなく、私を見ることもなく、ただ歩き続けた。それが私の最初の出会いでした。
ワーナーとの問題
「Diamonds & Pearls」が商業的に成功しツアーも順調だった頃、プリンスとワーナーとの間に対立があるんではないかという変な噂を耳にしました。
90年代前半には、マイケル・ジャクソン、マドンナ、R.E.M.といった巨大な契約がいくつもありましたが、もちろんプリンスも最大の契約を結ばなければならない。しかし、誰もその詳細をよく調べようとはしませんでした。彼は次の1,000万ドルの前金を得るためには、各レコードを500万枚売らなければならず、その数字は本当にでたらめだったからです。
音楽ビジネスなんだから、そうだろう?そして一瞬、彼は大丈夫だと思えた。しかし、その後、彼は問題に直面するようになりました。なぜなら、彼ら(ワーナー)は彼が望むほど早く多くのレコードをリリースしたがらなかったからです。3カ月や6カ月ごとにレコードを出したいというメジャーなアーティストに、どう対応すればいいのか。それは無理な話です。
改名騒動時の二人の証言
モー・オースティンから改名を知らされるジェフ
ジェフ:彼はマスターを取り戻したいと騒いでいたけど、(ワーナーのCEO)モー(オースティン)の反応は基本的に「契約を再交渉する前にそう考えるべきだったよ」というものでした。するとある日モーがやってきて「プリンスは名前を変えた」と言ったんです。
改名を電話で知ったマイケル
マイケル:「1993年の春の終わり頃、ほぼ何の連絡もなく電話がかかってきたんだ。電話の内容はプリンスが名前を変えるというものだった。死んだような沈黙!そして僕は“何に?”と言うと答えは“シンボル”だった。
それが何を意味するのかは分かっていた。ツアー中のいくつかのライヴで、彼は僕にビデオカメラをアリーナの真ん中に持っていかせ、特注のジャンプスーツから(シンボルの小さな金属版を)僕に渡し、「これが何を意味すると思うか、みんなに聞いてみるんだ(Ask people what they think this means)」と言っていたからね。
ある人は“愛(Love)”と答え、“団結(unity)”と答えた人もいた。でも、私が聞いた80~90%の人々は、男性でも女性でも年配でも若者でも"プリンス”と答えたんだ。
彼は「1999」からこのシンボルを使っていたから、ファンはそう認識したのでしょう。おそらく、それが彼を前進させるきっかけになったのだと思います。
そこで私はすぐにプレスリリースを作成し、私は灰の中から蘇る不死鳥とか、でたらめなことを書きました。シンボルを入れたフロッピーディスクを送り、シンボルが背景から前景へ現れ最後は「Current Affair」のような金属音で終わるというビデオを作りました。作戦を練る時間はなかったけれど、実はとてもよく練られていたんです。
改名を宣伝に使おうと考えるジェフ
ジェフ:プリンスは常に想定外のことをやっていたんだ。“何事にも驚くな”が彼についての信条だった。でも、彼がこんな事をするのは「君たちはプリンスと契約したけど、僕はもうプリンスじゃないんだ。僕はなんだ。」もちろん、そんなことは通用しませんが、私達はそれを楽しんでみようと思いました。プリンスからクレイジーな事を言われたから、それを宣伝に使って注目を集めようと考えたんです。
ペイズリー・パークの人達はボス(プリンス)を怖がっていて「私のボスから電話です」と電話をかけてくるので面白く思うこともありました。私たちは、「それは誰ですか、プリンス?」と尋ねると「まあ、私のボスです」と言うので「あなたのボスは誰ですか?」と言った事もありました。私たちは、ただ親切心で彼らに苦言を呈しただけなんです。
メディアもこの状況を楽しんでいました。"かつてプリンスと呼ばれたアーティスト(The Artist Formerly Known as Prince)"と呼ばれるようになり大いに盛り上がりました。でも実際の所、これもクレイジーなことなんだ。次のアルバムについて話していたとき彼は「このだけでいい、ここに自分の名前を入れたくない(I just want this , I want I don’t want my name on here)」と言ったんだ。
彼とは色んなものを共同制作していたのですが気心知れた関係でした。彼はマスコミに対し「僕は奴隷だ/ワーナー・ブラザーズにこき使われている」と話していたけど、彼は基本的には、私がこれまで接してきたのと同じ人でした。
ニュース・ディレクターだったリンダからの電話
マイケル:MTVの作品で、当時同社のニュースディレクターだったとリンダ・コラディナ(Linda Corradina)が笑いながら電話をかけてきたときのことがあります。「あなたがクレイジーなのは知っている。でも、このクレイジーさ、何してるの!」 と。正直なところ、自分のキャリアが終わったと思ったので、弔問のように感じました。でも、そのようなことは一切なく、みんな「面白い」と思ってくれました。「くだらないけど、面白い」と。
プリンスの想い聞くジェフ
ジェフ:ある日、彼は私のオフィスで、ワーナー・ブラザーズが自分が出したいアルバムを全部出させてくれないと文句を言っていました。基本的に彼は「レーベルから離れ、楽曲の提供だけで契約を終わらせよう (Let me get off the label and finish the contract by just delivering a bunch of music)」(これが最終的に彼がしたことです)と言っていました。
彼は自分のやっていることをよく分かっているし、私たちも彼のやっていることをよく分かっていました。だから私は彼に「私たちはこれらのアルバム1枚1枚に前金として莫大な金額を支払っています。それらをマーケティングして2枚、3枚のシングルをリリースし、マーケットに間を空ける必要があるんです。3カ月ごとにレコードをリリースするわけにはいかないんです」と話ました。すると、彼が僕と打ち解けたのは本当に数少ないことだったんだけど、彼はこんなことを言うんだ。
You know that everybody thinks these albums are carefully crafted, conceptualized things? I’m in the studio constantly, and when I get enough songs that I think, hey, together, there’s a record, it’s a record. So I have a lot of inventory and I want to release a lot of albums.
みんな、アルバムは入念に練られた、コンセプトのあるものだと思っているだろ?
僕は常にスタジオにいる。そして、「これはアルバムになる」と思えるだけの曲ができたら、それがアルバムになるんだ。だから、作品は沢山あるし、たくさんのアルバムをリリースしたいんだ。
それが、彼が得意とするパントマイム的なものではなく、本当の意味での会話をした一度きりでした。
彼の弁護士がビジネスで提携している担当者と話をしたり、そういうことで揉めることはあったかもしれません。しかし、彼はプレスリリースで話をするのが好きで、ワーナー・ブラザーズのオフィスにも、マーケティング会議に参加する時に、顔に「奴隷(SLAVE)」の文字を書いて現れるようになりました!でも、彼が私たちと話をしなかったり、私が彼に電話をかけられなかったりしたことは一度もありませんでした。
90年代後半からの動向を語るマイケル
マイケル:90年代後半から2000年代前半にかけては、(プリンスは)好きなだけ音楽をリリースしても誰も気にしてくれないという厳しい時期がありました。そこで彼はプリンスに戻り、再びヒット曲を演奏し始め、彼のツアーは何百万ドルも稼ぎました。
これは、少なくとも最近の音楽史において、面白いか、素晴らしいか、愚かか、ほとんど誰もが覚えている瞬間の1つです。 世界で最も有名なミュージシャン、あるいは一人の人間が、自分自身をほとんど完全に消し去り、自分の名前を発音できない文字に変えてしまったのです。それはとてもばかばかしく、前代未聞のことと同時に、信じられないほど現代的なことでもありました。
プリンスは謎めいた人でした。彼は私に何かを言うのですが、私は彼が何を言っているのか理解できないのです。でも、6ヵ月後にドライブしていると、「ああ、こういう意味だったんだ」と判るんです。
当時はもちろん、誰もができる最も馬鹿げたことのように思えた。でも今となっては、本当に歴史的なことだと思います。